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アラフォーの私。実は小学生の時に成績がなかった話

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私は40代なのでゆとり世代ではないです。
しかし、ふと、ゆとりっぽい実験をされていたことを思い出しました。
わたしの通っていた小学校では成績表がありませんでした。
正確には一応ありましたが、数字で線引するものではなく、
たとえば国語、算数、理科、社会とあれば
それぞれ大体3項目くらいに分かれていて

  • 内容を理解して発表ができる
  • 意欲的に学習できる

などということが規定文章で書かれていて、そこに

  • 三重丸
  • 二重丸

のどれかがついているだけ、と言うものでした。
テスト、の・ようなものは漢字テスト・計算テストぐらいしかありませんでした。
教材のテストっぽいものをやることはありましたが、隣の人と交換して点数付けするような感じで、成績の評価には使われていなかったと思います。

元祖ゆとりだったのでは、、、と近頃思います。。。

成績がないというのは児童にとっても不安なこと

今の時代なら「成績表がなくて大丈夫なの?」と親御さんが心配しそうです。
でもある意味のんきな時代でした。
ただ、こうして”ゆとりもどき”をやるとどうなるかというと・・・
日本という国では

普通じゃない = 漠然とした不安

ってなるんですよ。

成績をなくせばゆとりが生まれるか?

成績表がなくなると、勉強ができる、というアドバンテージがなくなります。
そういえば、いわゆる「賢そうな子」はいましたが、今思えばイメージだけでした。だから実際には中の上くらいだと全然わからない。
そうするとどうなると思います?

運動が全てになるんです。運動ができるかできないかで人間の評価になってしまうんです。少なくとも子供同士では!

運動ができなくても勉強ができればまあ、、が通用しない地獄です。

結局は勉強に点数をつけなくても、なぜだか、運動では点数をつけてしまうんです。
50m走が何秒だったとか、幅跳びが何メートルだったとか、懸垂が何回できるとか・・・すっごくわかりやすく数字ですから。

個の時代だなんて言いながら、私たちは、永遠に数字に惑わされていくのです。

そんな地獄を感じますね。

 

社会は溶けて、おなじになっていく

そんな変わった小学校も卒業して数年後に

「あの学校、成績表、普通になったってよ」

って聞きました。
結局社会は個の時代になんかに向かっておらず、
どんどん溶けていくように感じています。

グローバル化、というのもおなじになる一歩ですよね。

私は、それでいい、と思いますけどね。

 

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