人は誰もが幸福になれる・・・アドラー心理学(4)
共同体感覚。
アドラー心理学ではよく出てくる言葉です。
他者を「敵」として見てしまう例が出てきましたけど、それでは幸福は遠そうですね (泣)
他人を見たら敵と思え、でおなじみのやまもとには胸が痛むお話です。
なんだ、結局仲間は大事、みたいな話なんでしょうか。芋臭いドラマのよう??
ところが、アドラーがユニークなのは、
それは(仲間が第一)そうなんだけど、上下関係はNG、としている点です。
多くの人は同じように「共同体は大事だし、それがなければ社会はありえない」と思ってはいますが、
上下関係の有無については180度考えが違います。
むしろ、上下関係無くして、社会が成り立つわけがない、というのが一般論でしょうね。
それとも、上下関係は必要だけれども、対等な関係だってあるし、
対等な仲間の方が楽しいよね、
と感じている人のほうが多いでしょうか。
ところが一つでも上下関係がある人間は、
その他の人間関係も全て上下関係になっている、とアドラーは断言します。
私は、対等な関係なんてあるのか?、と思っていました。
例えば会社で課長職で取り仕切っている人は、
家に帰ったり、友だちと会ったりしても、この意識が切れないわけです。
多分家に帰れば、
お前たち家族を養うために働いてるんだ、と見下しますし、
見下さなかったとしても、
今度はこんなに頑張っているのに敬ってくれない、とひがんだり。これは下になっている状態です。
友だちと会っても、社会的地位を推し量って、
こいつは大した仕事をしていないな、俺のほうが偉いな、
こいつにはかなわない、俺のほうが下だ・・・
みたいな上下関係を意識してないかといえば、ドキリとするはずです。
と言うか殆どの男はこんな感じです。女性はどうなのかな?
上下関係があれば、
誰かを羨むことになります。誰かを羨むということは、一方で誰かを見下すということです。絶対に信頼は生まれません。
上下関係のときには仲間感が無いわけです。
アドラーの言う共同体感覚は
他者を仲間と思えれば→居場所を見つけ→貢献しよう! と思えるよ!
と言うものです。「~しなければならない」と言うものではありません。
アドラーの言う共同体感覚は私達の知っている共同体とはちょっと違うようです。
生きる喜びや幸福は人間関係無くしてはありえない。
自己への執着→他者への関心、にスライドする必要がある・・・と。
人間関係がうまくいかない人というのは「他人に関心がない人」です。
アドラーは他にも、自分が普通だということを受け入れろ、という考え方もありますので、
もしかしたら、少しずつ「自分自身に対して無関心になれ」ということを言っているように思えてきました。
他者に興味を持つということは、相対的には、正しいと思います。
共同体感覚に必要なもの
ざっくりと。。。
- 自己受容
- 他者貢献
- 他者信頼
自己受容は、自分を受け入れること。
原因論的には「私は劣っているから・・・」となってしまいますが、こう思うのなら目的論にスライドします。
よく「集中力がない」ことを悩む人がいますが、実は集中力がある人は災害に弱いそうです。危機が近づいていても集中しているので逃げ遅れるそうです。
ですから「現状把握力が強い」と考え直すようにするわけです。集中力がないのは現状を把握するためだ、と目的論的に考えるってことです。
幸せということを感じるときと言うのは、誰かの役に立っている、と感じた時。
また、誰かに貢献するためには信頼してないとできない。貢献と信頼はワンセットですね。
勇気づけ・勇気くじき
上下関係でよく見られる行動が「勇気くじき」というやつですね。
褒める・叱るの「叱る」の方ですよね。
勇気くじきの最大のデメリットは、そのお説教は有効に働くことが殆ど無い、というところです。
なぜなら、勇気くじきは理想の子供・部下を勝手にイメージして、現実の相手をそこからの引き算でしか見られないからです。100点などありえないし、100点でなければ駄目、なわけですから、ずっと勇気くじきを続けるしかありません。
ここは受け入れやすいかもしれません。なぜなら「叱って伸ばすより、褒めて伸ばす」ということは結構昔から聞きますから。
ただ、アドラー的には褒めるのもNGです 笑
逆に勇気づけするためには次のプロセスを手伝うことです。
共同体に)貢献感を感じ
↓
自分に)価値があると感じ
↓
勇気が持てる
ただ、、、褒めてはいけません。ここが重要です。
褒めるのではなく「ありがとう」で置き換えます。
ありがとう、と、褒める、との差は「上下関係のあるなし」です。
ありがとう、と素直に言えない相手は多分上下関係だからです。
人生に意味はない
人生に意味を感じてしまうと、他人と比べて優劣にこだわる原因となってしまうような気がします。
他人を羨むということは、その他の誰かを見下すこと。
他者への無関心の話が出ましたが、
他者への関心を持つ
↓
相対的に自分に無関心になる
↓
共同体感覚の入口
ではないのかな、と私は思いました。
私達はほとんど大した才能もなく、特別ではありません。
テレビや新聞などで、すごい人、を見すぎているのかもしれませんね。
そういう意味でもメディアは毒なのかもしれません。
「あなたは、普通だ。
それ以上でもそれ以下でもないことを受け入れよ」
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